中川信夫・人間として映画監督としての79年

<8> テレビ映画の監督をはじめる (1962年〜1966年)











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Nobuo Nakagawa 1905-1984

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■1962年(昭和37年)57歳

国際放映の専属、テレビ映画「柔道一代」の監督をはじめて手掛ける。

◎製作会社NACは、国際放映と改称、テレビ映画製作に移行。
◎日本アート・シアター・ギルド(ATG)設立。
◎東映時代劇退潮。
◎テレビ受信契約一千万台突破。



■1963年(昭和38年)58歳

テレビ映画「柔道一代」の中心監督として、十八本を手掛ける。

◎東映、やくざ映画路線に活路を開く。
◎小津安二郎没(60歳)。
◎アメリカ大統領J・F・ケネディ、暗殺される。



■1964年(昭和39年)59歳

テレビ映画の時代劇「父子鷹」に腕をふるう。劇映画から遠去かる。

◎二本立興行から一本立へ(映画製作減産体制へ)。
◎東京12チャンネル(テレビ東京)開局。
◎東海道新幹線開通。東京オリンピック開催。



■1965年(昭和40年)60歳

テレビ映画の時代劇「燃ゆる白虎隊」や子供向けドラマ「アッちゃん」など幅
広く仕事をする。特に、「アッちゃん」はレギュラー監督として、「続・アッ
ちゃん」「新・アッちゃん」を含め、翌年いっぱいまで携わる。

還暦の祝いを中川信夫を慕うスタッフたちが伊豆長岡で行なう。
『地獄』を持参、劇場を借りきって深夜に上映、大きな励みとなる。

◎松竹、京都撮影所を閉鎖。
◎大映争議に警官隊出動。
◎映画人口、三億六千八百万人に減少。
◎アメりカ軍・南ベトナム紛争に介入。北爆を開始、ベトナム戦争拡大。



■1966年(昭和41年)61歳

「映画評論」(10月号)誌上の怪奇と幻想映画展で、『東海道四谷怪談』が4
位、『地獄』が3位に選ばれる。

(注)30位までに選ばれた日本映画は、24位『怪談お岩の亡霊』(監督.加藤
泰)の三作品である。1位『吸血鬼ドラキュラ』(T・フィツシャー)、2位『血
とバラ』(R・ヴァディム)、3位『怪人マブゼ博士の挑戦』(H.ラインル)。

国際放映の専属契約をやめ、フリーとして、日映新杜初のテレビドラマ「鳴門
秘粘」(毎日放送製作、フジテレビ系放映)二十六本を翌年はじめまで一人で監
督。撮影申、仕事が終ると、連日一升前後の酒を飲む健在ぷりを発揮。

◎怪獣映画が流行。
◎全日空旅客機、東京湾に墜落。乗員、乗客百三十三人全員死亡。航空機事故
あいついで起こる。
◎中国で文化大革命。




◆◆1962〜1966年の作品◆◆

1962年『旗本退屈男 謎の珊瑚屋敷』『悲しみはいつも母に』
『まぼろし天狗』『紀州の暴れん坊』『稲妻峠の決斗』
1963年『日本残酷物語』『男の嵐』
1966年『にっぽんを叱る シャッター0』(監修)

◇◇TV作品◇◇

1962〜1963年『柔道一代』
1964年『いつか青空』『父子鷹』
1965年『アツちゃん』『燃ゆる白虎隊』『続アツちゃん』
1966年『とし子さん』『新アツちゃん』『鳴門秘帖』