中川信夫・人間として映画監督としての79年

<9> フリーの時代〜晩年 (1967年〜1985年)











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Nobuo Nakagawa 1905-1984

■1967年(昭和42年)62歳

ソビエトで『思春の泉』が上映。

フリーとして、国際放映で、テレビ映画「コメツトさん」(主演.九重祐三子)
を翌年までレギュラーで監督する。

◎アメリカ軍に没収された広島、長崎の原爆記録フィルム返還される。
◎テレビ受信契約数二千万台突破。
◎中東戦争起こる。



■1968年(昭和43年)63歳

東映(東京撮影所)に招かれ、劇映画『怪談蛇女』『妖艶毒婦伝人斬りお勝』
『妖艶毒婦伝お勝兇状旅』の三本を久々に監督。

ニューセンチュリーからも話があり、日活配給、『さくら盃義兄弟』も監督。
この年、大いに気を吐く。

◎ATG、一千万円映画の製作を発表。
◎原子力空母エンタープライズ、佐世保に入港。日本初の超高層ビル(三十六
階)霞ケ関ビル竣工。東大安田講堂を学生が占拠。三億円事件起こる。



■1969年(昭和44年)64歳

東京12チャンネルのテレビ映画。プレイガール(15話、「怪談濡れた女に手
を出すな」7月14日放映)をきつかけに、1976年3月までレギュラー監督として
主に仕事をする。

「キネマ旬報ー怪奇と恐怖ー」(臨時増刊8・20 503号)にて『東海道四谷怪
談』(シナリオ、製作メモも掲載)と『地獄』が大きく取りあげられる。


■1970年(昭和45年)65歳

東京12チャンネルで、『牡丹燈篭鬼火の巻』(7月11日放映)『牡丹燈篭鐙火
の巻』(7月18日放映)を監督。
撮影中は連日睡眠時間三時間足らずという熱の入れかたであった。
劇場用映画にも劣らない出来で、出演者にとっても代表作の一つとなった。

12月、『プレイガール』の撮影でグアム島に行く。

東京12チャンネル「人に歴史あり 左ト全」にゲスト出演。

◎日活一本社ビルを売却。大映と日活で合併会社ダイニチ映配を設立。これよ
り日本映画の配給が、東宝、松竹、東映と四系列になる。
◎国立フィルムセンター開館。
◎大阪で日本万国博覧会開催。赤軍派、よど号(日航機)をハイジャック一北朝
鮮へ亡命。三島由紀夫、自衛隊にクーデターを呼びかけ失敗、割腹自殺。



■1971年(昭和46年)66歳

黒澤明の自殺未遂に動揺。

「安楽死」の構想がはじまる。11月20日、原案出る。映画化を考え、創作メモ
、読書メモ、新聞や雑誌の切抜きなどを続ける。、

「映画評論」(9月号)の特集で恐怖映画について語る。『地獄』のシナリオが
掲載。

◎日活は、ダイニチ映配から撤退。ロマンポルノ製作に着手。大映破産宣告。
◎沖縄日本返還。中国、国連に加盟。



■1972年(昭和47年)67歳

◎映画人口二億人を割る
◎元日本兵・横井庄一が、グアムで発見され、帰国。連合赤軍浅問山山荘事件。



■1973年(昭和48年)68歳

上野本牧亭に出演中の浪曲師・国友忠に感動し、彼が住む茨城県猿島郡三和町
にあるホースフレンド国友牧場を時々訪れ、交友を深める。
「青年、中川信夫」「活火山、中川信夫」と励まされる。


◇6月21日より一年問、坂内永三郎夫人・愛に日記風の手紙を毎日出すことを
約束し、果す。

第一信ナリ。

約束二依り本日ヨリ来年ノ今日迄、即ち、昭和四十九年六月二十一日迄毎日、
君ニハガキヲオクリマス。「返事」ハオ断リイタシマス。「返事」が来たらコ
ノ約束ヲ破棄シマス。

第百七十四信。

口ぎたなく罵ル時モアルナレド/監督業はきびしきものぞ六十八歳も残りすく
なくなりにけり/六十九歳の春はちかずくかにかくに最高年齢カントクと/せ
めては残すかなしき記録。

第百八十二信。

夜半から年賀ハガキに/人々の面ざしなども想い浮かべつ
しみじみと謹賀新年かきおくる/これのこ二ろは/人のまことぞ
泥にまみれ人に押されて行き行くも/浮世荒波泳げや泳げ

(坂内永三郎夫人への手紙)


◎来日中の韓国新民党党主・金大中、誘拐。オイルショックで電力節約。トイ
レットペーパーパニックが起こる。



世田谷の惜家を追いたてられ、神奈川県大和市南林問四ー十五ー三十四に家を
建て、3月23日に移る。


『引越し』


引越す/二十六年余り住んだ家を近く引越す/仏壇の抽斗しから出て来た/母
の葬式の領収書一金六千円也
但/都民葬儀三段飾棺付属一式/霊枢自動車キロ増共/火葬料容器代共/茶代
席料/運転手及火夫寸志/
右之通領収侯也/昭和二十六年十月六日/東京都世田谷区一ノ三八七/松本葬
儀社 店主松本鐘昌
父母の位牌/竹雲院厳水日澄信士/慈雲院妙園日浄信女
俗名 中川竹次郎 行年 五十七才
俗名 中川ソノ 行年 七十三才
たらちねのははみまかりぬうからやから/ちいさきいえにこえあげてなく
母の死んだ家/遠からず/取り壊される家


(詩集「業」より)


4月少年時代の同人誌仲問・林喜芳、戸田巽ら五人で同人誌「少年」(隔月発
行)を創刊。詩を発表する(五十八号まで発行)。

坂内永三郎夫人に一年問の約東で毎日出した手紙が六月二十日で終わる。


第三百六十五信 小雨

五日市ロケのため六時〇五分の小田急車中。
にんげんとにんげんのこころを/つなぐきずなこそにんげんに/うまれしよろ
こびなれや

ー最終便り

サヨナラ

(坂内永三郎夫人への手紙)


「安楽死」創作ノートを書きはじめる(1978年まで)。

「映画評論」(10月号)誌の怪奇映画ベストテン(石上三登志、佐藤忠男、児
玉数夫、水木しげる、森卓也ら選者二十三人)で、『東海道四谷怪談』がベス
トワンに、『地獄』が四位に選ばれる。
他は『血とバラ』(二位)、『吸血鬼ドラキュラ』(三位)、『吸血鬼』(監
督.ポランスキー(五位)、『反撲』(六位)、『エクソシスト』(七位)、
『世にも怪奇な物語悪魔の首飾つ篇』(八位)、『白い肌に狂う鞭』(九位)、
『顔のない眼』(十位)。

◎大映は、徳問書店社長・徳問康快によって、再スタート。
◎シナリオ作家の登龍門、城戸賞が制定。
◎オカルト映画流行。
◎元陸軍少尉小野田寛郎が、ルバング島で発見され、帰国。アメリカ大統領ニ
クソン、ウォーターゲイト事件で辞任。田中角栄首相、金権、金脈問題で辞任。



■1975年(昭和50年)70歳

テレビ映画のメインであった「プレイガール」も、家を引越したため仕事場が
遠くなり、仕事から離れはじめる。
文筆活動への傾斜がはじまる。

◎「映画評論」休刊。
◎大映製作をはじめる。
◎東映、京都撮影所内に観光用として映画村を開設。
◎小型家庭用VTR(べー夕方式)が登場。翌年、VHS方式も登場、VTR
戦争がはじまる。
◎経済不況で中小企業の倒産続出。南ベトナムのサイゴン政権無条件降伏。ア
メリカ軍が撤退しベトナム戦争終わる。



■1976年(昭和51年)71歳

国友忠をモデルにした小説「浪曲師」(二百字詰原稿用紙三十八枚)を書く。

◎角川書店社長・角川春樹、映画製作に乗り出す。
◎ロッキード事件で、田中前首相逮捕。



■1977年(昭和52年)72歳

「杉」、第一回神奈川県芸術祭演劇脚本コンクールで佳作入選。

日本テレビの「美の世界ー地獄への誘い福沢一郎ー」にゲスト出演、ダンテ「神曲」について対談する。


■1978年(昭和53年)73歳

「寂蓼」、第二回神奈川県芸術祭演劇脚本コンクール佳作入選。

「車夫馬丁」の創作ノートを書きはじめ、小説として、二百字詰原稿用紙二百九枚まで執筆、未完。

◎東映、十二年振りの時代劇『柳生一族の陰謀』(監督・深作欣二)大ヒツト。
◎日活が にっかつ と改名。
◎アメリカ映画『スター・ウォーズ』世界中を沸かす。特撮(SFX)を駆使したSF映画がブームになる。
◎日本テレビ、音声多重放送を開始。



■1979年(昭和54年)74歳

「流氷」、第三回神奈川県芸術祭演劇脚本コンクール第三位入選。

「欲シガリマセン死ヌマデァハ」の創作メモをはじめる。

シナリオ「人問いちばんあかん」(未発表)を書きはじめる。

11月23日、長女・直子、石川泰正と結婚。


■1980年(昭和55年)75歳

「箱根の姉妹」を第一回箱根町演劇脚本コンクールに応募するが、落選。

「父の休日」、第四回神奈川県芸術祭演劇脚本コンクール第三位入選。

歌舞伎脚本「平家物語」のモチーフが浮ぷ。資料をあさりノートをはじめる。その一部を後に、映画『生きてゐる小平次』の冒頭に使う。

「流氷」が劇団葡萄座の手で上演される。

◎嵐寛寿郎没(76歳)。


■1981年(昭和56年)76歳

「中川信夫詩集業」を雑草社(自宅)から発行。

「冬」、第五回神奈川県芸術祭演劇脚本コンクール佳作入選。

大小説「劫業」のモチーフが浮び、創作メモをはじめる。

「阿呆学校」のモチーフの切抜きをはじめる。

東京12チャンネル「実録 四谷怪談」にゲスト出演(6月7日)。

NHK(第一)ラジオに出演。

ATG、一千万円映画の一作品として『生きてゐる小平次』を、自らのシナリオで十三年振りに監督。現役最長老の監督として話題をまく。

9月21日、次女・真日、神原純一と結婚。

「父の休日」、横浜市教育文化センターホールで劇団葡萄座が上演。

◎「映画の日」(12月1日)に半額興行を実施、大成功。
◎伊藤大輔没(82歳)。



■1982年(昭和57年)77歳

元旦、晴、風ナシ、午前一時二ろ目ざめ(九時スギ眠ル)

黒澤明「どですかでん』見る

一、誰か、新聞紹介欄で書いていたがドギツイ色彩使用、あざとし
一、とぴとぴ見たのだが(再見、三度目なり)劇構成散漫なり
一、書き初め「心春」
一、純一、真日来泊せり(三十一日)。純一、風邪の気抜けきらず
一、朝八時半頃起床
一、五名で、酒のむ
一、年賀ハガキ、十一時半ころ着、三百枚余(?)小平次へのこと多し
一、午后三時スギよりひる寝ー五時ころ目ざむ
一、「落語の年輸」輝峻康隆、本文読ミ終ル、ナカナカヨミこたゑありき
一、七時頃風呂に入ル

(日記より)



『生きてゐる小平次』完成(公開は9月)。

5月18日、ひと月おくれの中川信夫の喜寿を祝う会が、東京市ヶ谷の私学学館七階ホールで行なわれる。この時贈呈された目録は、登山帽一ダース、下駄五ダース、とうふ五百丁、酒一年分。

「大幸福」、第六回神奈川県芸術祭演劇脚本コンクール第二位入選。

「平家物語」をモチーフにした「平家悲歌(えれじい)」を執筆、二百字詰原稿用紙互二十六枚まで書いたが、途中で筆を置き未完。

『生きてゐる小平次』で第六固山路ふみ子賞特別賞を受賞。

◎映画監督、シナリオ作家、映画諸団体が反核アピールを出す。

■1983年(昭和58年)78歳

ドタバタ喜劇「憶無情」の創作メモを取りはじめる。

『生きてゐる小平次』キネマ旬報(1982年度)ベストテン第十位。
同作品で健在振りを示したことにより、「第四回ヨコハマ映画祭」特別大賞を受賞。
同じく、「第八回映画ファンのための映画まつり」特

別賞を受賞。
イタリアのヴエネツィア映画祭で上映、好評。

「金魂」のモチーフの資料に新聞の切抜きをはじめる。
「父卜子」(人生巡礼の地上地獄をテーマにした)創作ノートをはじめる。

◎東京映画、閉鎖。
◎宝塚映画撮影所、大映京都撮影所も業務転換、中断。
◎邦画各社のビデオ部門が大幅増収。



■1984年(昭59年)79歳

1月10日頃から風邪をひきはじめ、近くの和田病院に通院。
1月27日、排尿困難のため、同病院の紹介で大和市立病院泌尿器科に入院。
2月2日、左足が動かなくなり歩行困難となる。
2月9日、脊髄炎(風邪のウィルスが脊髄の中に入っ寸ため左足が動かなくなった)と内科で診断、内科病棟に移る。
3月12日、急に意識レベルが低下、言語障害も伴う。脳血栓と診断され、一時昏睡状態が続いたが回復、食事ができるようになった。
3月13日、呼吸状態が悪化、意識レベルがさらに低下、ほとんど反応を示さなくなった頭部(脳)に広範囲の脳梗塞の所見が認められた。
以後、しばしば危篤状態におちいる。

この問、イタリアのペサロ映画祭で『東海道四谷怪談』『地獄』が上映され、その映像表現に注目を浴びる。この映画祭に招待されたが行けなかった。

6月17日午後8時28分、心不全のため死去。

妙法、尭至院映道日信居士。

10月21日、相模霊園メモリアルパーク(神奈川県愛甲郡愛川町三増182)に新しく造られた墓に納骨される。

◎国立近代美術館フィルムセンターが火災、多くの貴重な作品を焼失。
◎ロス疑惑事件でマスコミの取材合戦が激化。




◆◆1967年〜1984年の作品◆◆

1968年『怪談蛇女』
1969年『さくら盃 義兄弟』『妖艶毒婦伝 人斬りお勝』
『妖艶毒婦伝 お勝兇状旅』
1982年『生きてゐる小平次』(遺作)

◇◇TV作品◇◇

1967年『おやじはおやじ』『コメットさん』『剣』『平四郎危機一髪』
1968年『お庭番』『平四郎危機一髪』『さむらい』
1969年『プレイガール』
1970年『プレイガール』『江戸川乱歩シリーズ 明智小五郎』
『牡丹燈篭鬼火の巻』『牡丹燈篭鐙火の巻』
1971年『プレイガール』『怪奇十三夜』『浮世絵女ねずみ小僧』
1972年『鉄道100年大いなる旅路』『怪談 新選組呪いの血しぶき 』
『プレイガール』
1973年『水滸伝』『無宿侍』『プレイガール』
1974年『プレイガール』『浮世絵女ねずみ小僧』『ウルトラマンレオ』
『鞍馬天狗』『プレイガールQ』
1975年『プレイガールQ』『破れ傘刀舟悪人狩り』
1976年『プレイガールQ』『ベルサイユのトラック姐ちゃん』