中川信夫・人間として映画監督としての79年

<7> 戦後の監督復帰〜東海道四谷怪談 (1948年〜1961年)











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Nobuo Nakagawa 1905-1984

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■1948年(昭和23年)43歳

戦後復帰第一作『馬車物語』公開。

◎東宝、大争議(第三次)に突人。アメリカ軍が出動。
◎帝銀毒殺事件。インドでガンジーが暗殺される。



■1949年(昭和24年)44歳

『私刑』で嵐寛寿郎と初めて仕事をする。

◎GHQの要請で映画倫理規定管理委員会(映倫)発足。
◎美空ひばりデビュー。
◎下山事件、三鷹事件、松川事件が続発。湯川秀樹ノーベル賞受賞。中華人民
共和国成立。



■1950年(昭和25年)45歳

4月19日、次女・真日生まれる。

ロケ中に痔を患い、クランクアップ直後に岡崎の病院に一力月半入院。

◎吉村公三郎、新藤兼人ら近代映画協金設立。
◎岩波映画社創立。
◎レッド・パージで映画界から百九名が追放。
◎アメリカでは、テレビの普及で映画産業が不況になる。
◎警察予備軍設置。朝鮮戦争起こる。



■1951年(昭和26年)46歳

10月25日、母・ソノ死去(73歳)。

東映京都で市川右太衛門と十五年振りに『旗本退屈男 唐人街の鬼』で仕事を
する。

◎東和映画株式全社創立。
◎日本初のカラー劇映画『カルメン故郷に帰る』(監督・木下恵介)。
◎大泉スタジオ、東横映画、東京映画配給が合併し、東映株式会社発足。
◎『羅生門』(監督・黒澤明)、ヴェネツィア映画祭でグランプリ受賞。
◎マッカーサー連合軍最高司令官解任。日本安全保障条約調印(翌年、発行)。
朝鮮戦争休戦。


■1952年(昭和27年)47歳

伊丹万作脚本で『恋風五十三次』(山田プロダクション)を監督。

東映東京で栄田清一郎プロデューサーの二作品『いとし子と耐えてゆかむ』
『今日は会社の月給日』を続けて監督。

◎東京映画株式全杜創立。
◎溝口健二、『西鶴一代女』でヴェネツィア映画祭の監督賞受賞。
◎フィルムライブラリー創設。
◎血のメーデー事件、警察予備隊、保安隊と改称。



■1953年(昭和28年)48歳

宇津井健第一回主演作『思春の泉』を監督。好評で朝日新聞に批評が載った翌
朝、東宝撮影所長だった森岩雄と出会い東宝に戻って来ないかと言われ胸をつ
まらせる。

長年の夢だった石川啄木の映画化『若き日の啄木 雲は天才である』に取りか
かる。

◎松竹、東宝、大映、東映、新東宝で俳優の引き抜き防止を目的とした五社協
定を結ぶ。日活、自主製作再開発表(再開は翌年)。
◎シネマスコープ『聖衣』(監督・ヘンリー・コースター)公開。ワイドスク
リーン時代来る。
◎保安隊、自衛隊となる。



■1954年(昭和29年)49歳


◎『地獄門』(監督・衣笠貞之助)、カンヌ映画祭でグランプリ受賞。核問題
をテーマにした『ゴジラ』(監督・本多猪四郎、特撮監督・円谷英二)公開。
特撮映画のきっかけとなる。
◎アメリカのビキニ水爆実験で第五福竜丸被災。


■1953年(昭和30年)50歳

夏目漱石の『三四郎』を東宝で監督。戦前の同じ漱石の『虞美人草』にならっ
て、禁酒を思い立ったが守れず。

◎東京放送(現TBS)開局。
◎第一回原水爆禁止世界大会が広島で開催。



■1956年(昭和31年)51歳

東宝『吸血蛾』、宝塚映画『恋すがた狐御殿』を監督。以後、新東宝に腰を落
ち着けて仕事をする。

◎太陽族映画が流行し、『太陽の季節』(監督・古川卓己)、『処刑の部屋』
(監督・市川崑)が世論の反撃にあう。新映倫が発足。
◎水俣病患者発見。



■1957年(昭和32年)52歳

初めての怪談映画『怪談累が渕』を発表。

◎各社で画面の大型化(シネスコ)、カラー化がはじまる。
◎日活が加わり六社協定になる。
◎東海村原子炉、稼動。ソビエト人工衛星スプートニク第一号打上げに成功。



■1958年(昭和33年)53歳

現代をモノクロ、過去をカラーで表現した怪談物、『亡霊怪猫屋敷』を発表。

◎映画人ロピーク(12億2745万人、国民一人当り年間12〜13回の観覧)。
これ以後、テレビ(受信者100万越す)に押され、斜陽化をたどる。
◎売春防止法実施。アメリカ、人工衛星打上げに成功。



■1959年(昭和34年)54歳

2月24日、昼食後、胃腸に痛みを覚える。翌日、盲腸の診断に国立大蔵病院に入
院、その日に手術を行う。3月5日、退院。


◇二月二十四日。雪。一寸。

昼食後、下痢三、四回、盲腸の痛み少々あり。ほり炬燵にて臥せおりたるも少
々変だと思い、船上医師の来診を乞う。その時は痛みあまりになく(夕六時す
ぎ)「急性胃腸加答児」と注射二本。それより痛みやや強まり九時頃、電話せ
しところ、昨日くいたる物が胃に残っているのかもわからぬ、塩水などのみ指
をつっこみて吐くといいとのことにて、実行すれど一向に吐き気なし。下痢も
とまる。そのまま「うーん、うーん」など繰返し、夜十二時ヨリ朝五時迄湯タ
ンポに賢腸を押しつけて報転反側、一分の休止なし、ミヤコかたわらに、手段
なく医師呼ぶにも、深夜なれば、遠慮す。(夕食の卵汁らしき匂い実にいやだ
った。火鉢の炭の匂いも鋭敏になるらしい。)

(日記「盲腸入院日誌」より)


『東海道四谷怪談』を発表、怪談映画の巨匠と言われるきっかけとなる。

「オレはこの仕事一本で今でも仕事ができている」とよく言っていた。

◎フランスでF・トリュフオー、J・L・ゴダール、C・シャブロルが台頭、ヌー
ヴェル・ヴァーグと呼ばれる。
◎NETテレビ(テレビ朝日)、フジテレビが開局。
◎日米安保条約改定阻止運動起る。



■1960年(昭和35年)55歳

代表作の一つ、『地獄』を発表。

◎東映は、第二東映を発足。
◎大島渚、吉田喜重、篠田正浩らが松竹から監督デビュー、松竹ヌーヴェル・
ヴァーグと呼ばれ話題となる。
◎カラーテレビの本放送開始。
◎日米安保条約改定阻止運動高まるが、岸内閣新安保条約を自然成立させる。
浅沼社会党委員長、右翼の少年一17歳一に刺殺される。



■1961年(昭和36年)56歳

『地獄』に続く作品として、ダンテ「神曲」の準備にかかるが、8月末、新東
宝の倒産で実現できず。しかし、ライフワークとして以後も創作ノートを取り
続ける。この過程から「安楽死」のモチーフが生まれた。

白ら代表作の一つとする『「粘土のお面」よりかあちゃん』を監督。
「愚連隊」(『悲しみはいつも母に』と改題、翌年、大映配給で公開)が新東
宝での最後の作品となる。

東映京都に招かれ、『八百万石に挑む勇』をはじめ翌年にかけて五作品を監督。

テレビ映画の監督をはじめる。

◎新東宝、倒産(負債総額七億八千万円)。東映は、ニュー東映(第二東映)を解消。
◎ソビエトでガガーリン少佐、人問衛星船で地球一周に成功。




◆◆1948年〜1961年の作品◆◆

1948年『馬車物語』
1949年『深夜の告白』『エノケンのとび助冒険旅行』『私刑』
1950年『月の出の接吻』『当り矢金八捕物帳・千里の虎』
『アマカラ珍騒動』『若さま捕物帳・謎の能面屋敷』
1951年『右門捕物帳・片眼狼』『又四郎行状記・鬼姫しぐれ』
『若さま侍捕物帳・呪いの人形師』『旗本退屈男・唐人街の鬼』
『高原の駅よさようなら』『さすらいの旅路』
1952年『右門捕物帳・緋鹿の子異変』『犬姫様』『恋風五十三次』
『いとし子と耐えてゆかむ』『今日は会社の月給日』『夕焼け富士』
1953年『江戸っ子判官』『晴れ姿 伊豆の佐太郎』
『金さん捕物帳 謎の人形師』『江戸の花道』『思春の泉』
1954年『若き日の啄木 雲は天才である』『石中先生行状記 青春無銭旅行』
『ほらふき丹次』『兄さんの愛情』
1955年『番場の忠太郎』『三四郎』『青ヶ島の子供たち 女教師の記録』
1956年『吸血蛾』『恋すがた狐御殿』『阿修羅三剣士』『怪異宇都宮釣天井』
『人形左七捕物帳 妖艶六死美人』
1957年『風雲急なり大阪城 真田十勇士総進軍』
『人形佐七捕物帖 大江戸の丑満刻』『怪談累が渕』『ひばりが丘の対決』
『将軍家光と天下の彦左』
1958年『毒婦高橋お伝』『天下の副将軍 水戸漫遊記』『亡霊怪猫屋敷』
『憲兵と幽霊』『侠艶小判鮫 前編』『侠艶小判鮫 後編』
1959年『女吸血鬼』『影法師捕物帖』『日本のロマンス』『東海道四谷怪談』
『雷電』『続雷電』
1960年『女死刑囚の脱獄』『地獄』
1961年『旗本喧嘩鷹』『八百万石に挑む男』『「粘土のお面」より かあちゃん』