中川信夫・人間として映画監督としての79年

<5> 映画監督となる (1934年〜1941年)

■1934年(昭和9年)29歳

市川右太衛門プロダクションの二部の作品『弓矢八幡剣』で初めて監督となる。
監督昇進へのテスト作品であったが、社内的に好評をえて監督の道が開ける。

「キネマ旬報」の投稿仲問の滝沢一と知合い、以後、莫逆の友として交際を続け
る。

◎日活、日本映画の多摩川の撮影所を買収、現代劇を移す。永田雅一らは日活を
退社、第一映画社を創立。



■1935年(昭和10年)30歳

『東海の顔役』で監督として本格的にデビューする。主題歌「旅笠遣中」が大ヒ
ットして股旅物の歌謡の先駆けとなる。デビュー作は自らの原作、脚本による「
鉄の昼夜帯」(のち『悪太郎獅子』として実現)を望んだが果せず、その苦い思
いをまぎらわすため酒をおぼえる。

莫逆の友、滝沢一と共同脚本(猿沢丈介のペンネーム)『恥を知る者』『御用唄
鼠小僧』を統けて監督する。

◎新興キネマ、東京大泉に撮影所を建設、現代劇を移す(現東映東京撮影所)。
◎財団法人大日本映画協会発足。機関誌「日本映画」創刊。
◎10月、マキノ・トーキー設立。



■1936年(昭和11年)31歳

1月、『悪太郎獅子』の完成とともに、市川右太衛門プロダクションのあやめ池
撮影所が閉鎖。松竹に合併され、市川右太衛門と一部のスタッフは松竹京都第ニ
スタジオに行く。残された信夫は失業。

信夫、マキノ一トーキー(京都市右京区太秦帷子ノ辻)に入社。マキノ正博監督
作品『丹下左膳 坤龍呪縛之巻』(助監督)、『恋慕の砧』(監督補)につく。
入社第一回監督作品『修羅八荒 前篇』の撮影開始。

◎松竹蒲田撮影所、大船に移転。
◎東京宝塚、P・C・L、J・Oが合併し、東宝映画配給株式会社を創立。
◎全勝キネマ創立。



■1937年(昭和12年)32歳

『女左膳 魔剣の巻』を完成後、「女左膳 修羅の巻」を着手する予定であった
が経営悪化のため中止。

4月10日、マキノ・トーキーは解散を決定。京都市右京区太秦蜂岡八に借りてい
た家(庭を小川が流れ、家賃十三円)を失業のため引払い、姉・はつの嫁ぎ先の
家に居候をする。
嵐寛寿郎プロダクション(京都市右京区太秦面影町)に入杜。大佛次郎原作「由
井正雪」のシナリオ(嵐寛寿郎の松平伊豆守と丸橋忠弥の二役)を書き、監督す
る予定であったが、8月6日、プロダクションが解散し実現できなかった。

失業中の信夫はJ・Oスタジオのブロテューサー森田信義が『旗本八萬騎』を褒
めていたと耳にし、面識はなかったが、森田の家を早朝に訪ね「中川です、使っ
て下さい」と一言いって帰ってくる。

二、三日して連絡あり、J・Oスタジオに森田を訪ねるとシナリオを書くように
言われる。J・Oスタジオの第二会社・今井映画製作所用のシノプシスニ本(「
忠君二君に仕えず」「馬賊髑髏隊」)を書きあげ持っていく。
「馬賊髑髏隊」は後に今井映画で『猛虎一代』(稲葉蛟児監督、紹和11年3月封
切)と改題され映画化される。

11月、東宝入社第一回作品『日本一の岡っ引』に着手。飲み仲間の今井正(監督
昇進第一回作品『沼津兵学校Lを準備中)が一日だけロケーションにスクリプタ
ーとして協力。その夜、二人はしたたか酒を飲む。

◎4月6日、松竹キネマ、松竹興行と合併、松竹株式会社として改称。
◎極東映画、極東キネマ株式会杜と改称。
◎東宝映画株式会社、ブロックのトラスト化を強化するため東宝映画株式会社と
する。
◎日本映画各社戦時体制を強化。



■1938年(昭和13年)33歳

東京から渾大坊五郎が東宝京都撮影所に未る。その懐刀として一緒に来た「キネ
マ旬報」の投稿伸問だった友人・岸松雄のとりなしで、渾大坊五郎に『伊太八縞
』の監督に起用される。以来、渾大坊五郎を恩義ある人として、終生思い続ける。

次回作に時代音楽映画「大いなる奏楽」(脚本・斎藤豊吉)が決まり、準備をは
じめたが中止となる。代りに、東宝に入社したばかりの長谷川一夫(林長二郎改
め)主演四作品の『月下の若武者』を監督する。

◎映画法公布(脚本の事前検閲、文化映画、ニュース映画の強制上映、製作・配
給の許可制など二十六ケ条からなる)。
◎中国に中華電影、華北電影を設立。
◎第二次世界大戦はじまる。



■1939年8昭和14年)34歳

渾大坊五郎と森田信義が東宝撮影所に移る。信夫も招かれ東京に行き、エノケン
(榎本健一)の喜劇映画を多く監督する。

東京都世田谷区代田二丁目九六八 秀楽園に下宿し、東宝撮影所に通う。

この頃、軽演劇を行っていた新宿の「ムーランルージュ」(左ト全が独自の芝居
をしていた)に通う。その帰りに「おた幸」のおでんで一杯やるのがつねであっ
た。

◎今井正(27歳)監督テビュー。


■1940年(昭和15年)35歳

エノケン物などの喜劇映画を監督する。

◎文化映画、強制上映実施。映画興行、許可制となる。映画用フィル、割当てと
なる。
◎松竹は、全勝キネマを吸収。



■1941年(昭和16年)36歳

東宝京都作品「村と兵隊」(原作・吉屋信子)を『暁の進発』と改題し監督。脚
本改訂のため、京都八瀬大原の平八茶屋に脚本家の鈴木兵吾と一カ月こもる。

東宝撮影所にて夏目漱石の『虞美人草』にかかる。青山墓地にある漱石の墓に詣
り、撮影中一力月の問、禁酒を誓い、実行する。

製作統制により製作本数が減少、契約切れで東宝を首になる。

松竹京都撮影所に移って製作部長をしていた渾大坊五郎に招かれて松竹京都に入
杜。ところがまもなく縮小となり大船撮影所に合併。「助監督をやらねばならぬ
」という覚悟で大船に行くが下宿が見つからず、すぐ京都に引返す。

その途中、車窓に海を見て停車した根府川の駅に降りる。その波打ち際に立ち、
暗澹たる気持ちで海を見詰める。この時の思いは、晩年発刊した詩集「業」のタ
イトルを「根府川」にと、はじめは考えたほど強烈であった。

松竹京都撮影所に籍を置いたまま、次の企画を待つ。

◎内務省、劇映画の製作を制限(松竹、日活、東宝、新興、大都の五社は年問四
十八本)。
◎「キネマ旬報」など映画雑誌や映画新聞が四社九誌に統合。映画の国家管理が
強化される。
◎日本軍ハワイ真珠湾を奇襲攻撃、太平洋戦争はじまる。






◆◆1934年(初監督)〜1941年の作品◆◆

1934年『弓矢八幡剣』
1935年『東海の顔役』『恥を知る者』『御用唄鼠小僧』『箱根八里』
1936年『悪太郎獅子』『修羅八荒 前編』『修羅八荒 後編』『槍持街道』
1937年『旗本八萬騎』『女左膳 第一篇 妖火の巻』『女左膳 第二篇 
魔剣の巻』
1938年『日本一の岡っ引』『伊太八縞』『月下の若武者』
1939年『エノケンの森の石松』『エノケンの頑張り戦術』
『新編 丹下左膳 隻眼の巻』
1940年『エノケンの彌次喜多』『金語楼のむすめ物語』
『エノケンの誉れの土俵入り』『エノケンのワンワン大将』『電撃息子』
1941年『暁の進発』『虞美人草』

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Nobuo Nakagawa 1905-1984

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