中川信夫・人間として映画監督としての79年

<4> 助監督時代〜映画の道に (1929年〜1933年)

■1929年(昭和4年)24歳

「キネマ旬報」に投稿を続ける傍ら村田監督の返事を待つ。

この間に、京都に来た加藤銀次郎(映画雑誌「日活花影」「東亜キネマ」の編集
を担当していた文学青年)と知合い、その取材と編集の仕事に携る。同誌の主幹
、山田潤二の家の二階で仕事を二力月ぐらいする。映画雑誌の編集、芸能記者と
して東亜キネマ等持院撮影所に取材し、いつも履歴書をもち歩いていた。

村田監督の返事が待ちきれず、知人の紹介でマキノ撮影所を訪ね、助監督として
入社が決まる。その直後、村田監督から「来るように」と電報が来るが、すでに
入杜の決まっていたマキノ映画に行くことにした。マキノ映画の創設者、牧野省
三が死去(7月25日)した直後である。月給二十円也。

この頃、酒一升、《上等》二円二十銭、《中等》一円六十銭、《並》九十八銭、
コーヒー一杯、十銭。アパート(六畳一問)七円。きつね丼十五銭。

最初は阪田重則監督について『相馬の金さん』『草に祈る』『学生三代記』など
の助監督をつとめる。以後は、マキノ正博監督の助監督をつとめる(『嬰児殺し
』『ぴんころ長次』『泥だらけの天使』『浪人太平記』など)。

この問に下記のシナリオを書かされるが、シナリオ料はなし。

『変幻女六部』(原作・前田曙山、監督・吉野二郎)『かまいたち』(原作・村上
浪六、監督・押本七之輔)『幕末風雲記』三篇(共同脚本.藤田潤一、監督・マキ
ノ正博・久保為義・稲葉蛟児)『ぴんころ長次』(監督・マキノ正博)『泥だら
けの天使』(監督・マキノ正博)『浪人太平記』(原作・比佐芳武、監督・マキノ
正博)

山上伊太郎に心酔する助監督仲間の一人日夏英太郎と親交がはじまる。美術部に
席を置くタイトル書きの鈴木影一郎とも親しくなり日夏と三人でシナリオ「都会
の鉄条網」を書く。

◎旧ナップ映画部、組織を変え、日本プロレタリア映画同盟(プロキノ)を創立。
◎トーキー興行がはじまり、失業弁土、楽土が続出。
◎世界経済恐慌が起こる。



■1930年(昭和5年)25歳

山上伊太郎に心を寄せていた早稲田大学生の穂積純太郎(ペンネームは人丸京平、
「キネマ旬報」の投稿仲間)がマキノ撮影所を訪ねて来る。この時初めて会った
二人はそのまま日活太秦撮影所を訪れ、たまたま伊藤大輔監督の『素浪人忠弥』
の撮影現場を見学する。
この日以来、穂積と交際がはじまり、彼から社会主義思想の影響を受ける。連名
で「キネマ旬報」へ投稿した原稿もある。(1931年5月1日号・399号)

世界経済恐慌のあおりで、不景気となり、八月マキノ撮影所は給料を遅配し、争
議に突入、その記録係りをする。この時、袴をはいた和服姿の山上伊太郎が畳を
叩いて大いに弁じた姿が印象的だったという。
12月、マキノ撮影所は、映画製作を一時中止。山上伊太郎が退社。信夫も神戸の
家に帰り、マキノ撮影所には戻らなかった。

暮から翌年の正月にかけて、鈴木影一郎に伴われ、日夏英太郎と名古屋に住む鈴
木の兄の家で休暇を過ごす。その間に「キネマ旬報」1931年1月21日号の掲載原
稿を書く。

◎宝塚映画設立(東亜キネマと提携)。
◎阪東妻三郎、市川右太衛門、月形龍之介、片岡千恵蔵などの独立プ口大手会社
と提携、その傘下に入る。



■1931年(昭和6年)26歳

春、シナリオ「浪人祭」を人丸京平と共作。

5月8日、神戸の実家「巌水食堂」閉店。
二番目の弟・義夫(京都の呉服屋に奉公していた)を呼び出し、三宮神社裏の生
田筋(神戸市神戸区二宮町二丁目二一一)に喫茶店「カラス」を開店、義夫にま
かす。母と共に皿洗いなどをして手伝う。

マキノ撮影所、撮影を再開するが、すぐ製作不能となつ10月に解散。

◎写真科学研究所(P・C・L)創立。
◎日本初の本格的トーキー映画『マダムと女房』(五所平之助監督)がヒット。
◎小林一三、東活映画株式会社創立。
◎新興キネマ(帝国キネマを引き継ぎ)創立。



■1932年(昭和7年)27歳

マキノ時代から親しかった稲葉蛟児監督(すでに市川右太衛門プロダクションで
仕事をしていた)から誘いを受け、市川右太衛門プロダクション(奈良市外大軌沿
線あやめ池)で、助監督になる。月給三十五円也。

シナリオの才能を買われ助監督の傍らシナリオを書く。まず、自らの原案による
『寝返り仁義』(渡辺新太郎監督、封切・昭和9年9月)で五十円を貰う。

撮影所は奈良のあやめ池温泉の松林の中にあった。その付属寮に移つ住んだ後、
近くの油坂に稲垣朝二と鈴木影一郎と二階家の一軒を借りて住む。表札は磯野泡
美の名であった。部屋代が払えず昼間夜逃げのようにして出て、稲葉蛟児監督の
部屋にキャメラ助手ら四、五人と下宿する。

あやめ池の撮影所に来た山上伊太郎から、
「人問一生に一度は気を吐く時があるものです」
という励ましの言葉を貰い、失意の時などいつも反省の鞭にした。

◎山中貞雄(23歳一監督テビュー)


■1933年(昭和8年)28歳

◎日本映画創立。多摩川(調布)に撮影所を建設(後の大映東京撮影所)。
◎J・Oスタジオ、太秦発声、大都映画P・C・L映画が創立。

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Nobuo Nakagawa 1905-1984

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