中川信夫・人間として映画監督としての79年

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青年時代〜映画への夢(1925年〜1928年)

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Nobuo Nakagawa 1905-1984

■1925年(大正14年)20歳

帝国キネマ小阪撮影所に入社。まずキャメラ助手をし、現像の仕事をするが、
二週間ぐらいでやめる。

◎牧野省三、東亜キネマと別れ、マキノ・プロダクションを創立。
◎阪東妻二郎、独立プロを起こす。
◎聯合映画芸術家協会が直木三十五、根岸寛一、牧野省三で発足。
◎治安維持法公布。


■1926年(大正15年・昭和元年)21歳

3月3日、父・竹次郎、喘息発作に因る心臓麻痒で死去(57歳)。
母・ソノが家業を継ぎ、それを手伝う。出前持ちなどもやり、重い鰻丼十個も
担いで運んだ。
「これはあんたの商いやで」と母から口癖のように言われ、「商い」という言
葉が、ゾッとするほど嫌だったという。

◎尾上松之助没(51歳)。
◎マキノ正博(18歳)監督デビュー。
◎日本放送協会(NHK)設立。



■1927年(昭和2年)22歳

同人誌「幻魚」に小説「花のある獄門台」を発表。新感覚派の影響を受けて、
文章も横光張りのお寒いものと自ら述懐。同人には大阪善次(ペンネーム・戸
田巽)ら九人。後、林喜芳が加わり、晩年まで交友する。

芥川龍之介の自殺にショックを受ける。文学に進むには大学を出ていないと駄
目、映画ならやれそうだと文学から映画に傾く。

◎最初のトーキー・スタジオとして昭和キネマ創立。
◎市川右太衛門プロ設立。
◎アメリカで世界最初のオールトーキー『ジャズシンガー』が公開。
◎小津安二郎(24歳)監督デビュー。


■1928年(昭和3年)23歳

初めての映画評論「原作・脚色・監督」を雑誌(映画とは無関係の雑誌、誌名
不明)に投稿、掲載される。
「キネマ旬報」が創刊九周年を記念して読者から募集した懸賞論文に投稿した
「ストオリー及びシナリオに就いて」が当選(五篇のうち第二位、応募原稿三
百五十八篇)、「キネマ旬報」306号(9月1日号)に掲載され、以後「キネマ
旬報」に投稿を続ける。

知人の紹介状をもって、京都の大将軍に在った日活撮影所を訪れ、村田実監督
(『灰鑑』を撮影中)に会い、助監督になりたいと頼む。そのとき、「監督に
なるには、まず俳優をすることだ」と言われ驚く(村田実は俳優出身。内田吐
夢、衣笠貞之助も同様)。
返事を待つ間、「煙草を吸う女」など二、三のシナリオを書き上げ、投稿原稿
「女優沢蘭子 賛美形容詞」が掲載された「帝キネ」(ファン雑誌)と一緒に
村田実へ送ったが、返事が釆なかった。

◎片岡千恵蔵、嵐寛寿郎が独立プロを創立。
◎川喜多長政、東和商事映画部を創立。
◎山上伊太郎(脚本家)、伊藤大輔らによる時代劇全盛。マキノ映画の黄金期。
◎全日本無産者芸術連盟(ナップ)結成。

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