中川信夫・人間として映画監督としての79年
<2> 少年時代〜文学をめざして (1919年〜1924年)
■1919年(大正8年)14歳
私立育英商業学校入学。同校夜問部珠算専科にも在籍、昼夜勉学に励む。学
校伸問の大阪善次(戸田巽)、十河祝たちとガリバン同人誌「青い旗」を出
す。
◎国際活映株式会社(国活)創立。
◎「キネマ旬報」創刊。
■1920年(大正9年)15歳
神戸の布引の滝へ移り、父、大料亭「巌水」を開く。
6月、珠算専科、第二回珠算競技会で読上げ決勝で一等、第二級乗算で二等を
とる。9月、珠算一級を卒業。
◎松竹キネマ、大正活映、帝国キネマが創立。
■1923年(大正12年)18歳
大杉栄の追悼会の日、警察の手入れを受けるが、母の計らい(お金を渡した
とのこと)で難を逃れる。
◎牧野省三、株式会杜マキノ映画製作所を創立。
◎東亜キネマ創立。
◎関東大震災のため撮影所に被害を受けた松竹、日活は京都へ移る。
◎溝口健二(25歳)監督デビュー。
◎ソビエト社会主義共和国連邦誕生。
■1924年(大正13年)19歳
私立育英商業高校卒業(3月10日)。
父、武庫川の道路となる土地を宅地と騙されて買い、さらに、恐慌と土地の
大暴落のためすべてを手放す。神戸市元町七丁目、相生橋畔の木造三階建の
家を惜り「巌水鰻食堂」をはじめる。
父に「映画監督になりたい」と言うと、
「好きな道へ行け」と言われて、一生が決まる。
この頃、横光利一、川端康成の新感覚派文学にひたる。プロレタリア文学に
も傾倒。
◎日活、松竹、帝国キネマ、マキノ映画四社で日本映画製作者協会を設立
(検閲の全国統一、引き抜き防止、配給制の確立が目的)。
◎マキノ映画は、東亜に合併、吸収される。
◎伊藤大輔(26歳)監督デビュー。
Nobuo Nakagawa 1905-1984