■1905年(明治38年)0歳

4月18日、京都洛西、嵯峨二尊院門前町に中川竹次郎と中川(旧姓北川)ソノの
長男として生まれる。父・申川竹次郎は、今も嵐山にある料理旅館嵐峡館(明治
初年創業)の板場のシン(板前の主任)、母ソノは、同旅館の仲居頭であった。
姉・はつ、2歳。

◎日露戦争実況映画に明けくれる。
◎アメリカのピッツバーグにニッケル・オデオン開設。



■1906年(明治39年)1歳

◎梅屋圧吉、シンガポールからパテ映画を持ち帰り、Mパテー商会を創立。


■1907年(明治40年)2歳

妹・千代、生まれる。

◎牧野省三、横田商会で映画製作を始める。


■1908年(明治41年)3歳

弟・秀夫、生まれる。

◎吉沢商店、東京の目黒に日本最初の撮影所(グラス・ステージ)をつくる。


■1909年(明治42年)4歳

一家は大阪の曽根崎町近くのしじみ橋の袂に移り、店を開く。冬場は父が考案し
た煮豆(おかず豆ではなく、上等な料理屋が使う一寸豆、一六豆、うずら豆、金
時豆、小豆などの甘煮や甘納豆)を売り、夏場になると、鰻、鯉、鮒、泥鰌など
川魚料理を売っていた。
7月31日の天満の大火で店を焼失、木津川の川辺りに建てられた掘っ建て小屋の
罹災者収容所で数ヵ月暮らし、神戸の荒田町近くに移る。
父は天王の料理屋で働き、母は湊川神社の境内で縫い針を売り、生計をたてなお
す。

◎日本最初の映画雑誌「活動写真界」創刊。
◎尾上松之助の第一回主演映画『碁盤忠信』(監督・牧野省三)公開。



■1910年(明治43年)5歳

貯えができ、荒田町に移って、煮豆屋「一寸豆 中川」を開く。
すぐ近くにあった神戸監獄の囚人護送馬車が店の前を通るのをいつも」眺めてい
た。このときの印象をモチーフにした小説「車夫馬丁」を晩年の1987年頃から書
きはじめていたが未完に終わる。

◎大逆事件により幸徳秋水ら逮捕。


■1911年(明治44年)6歳

新開地の横丁に店を移し、冬場で煮豆屋をはじめたが、後に鰻屋「でっち生洲」
にかえたのが大当たりして父の運が開ける。

◎浅草富士館が映画界最初の株式会社日本興行を創立。

■1912年(明治45年・大正元年)7歳

橘尋常小学校入学。
父、福原遊郭に近い新開地の一角に料亭「曲水」を出す。

◎吉沢商店、福宝堂、横田商会、Mパテー商会が合同し、日本活動写真株式会社
(日活)を創設。



■1913年(大正2年)8歳

弟・義夫、生まれる。

■1914年(大正3年)9歳

昼間は芝居や活動写真の小屋、夜は福原遊郭に来る人たちで賑う新開地大通りが、
朝夕には川崎造船所へ通う職工たちの洪水のような菜っ葉服一色になった風景に、
強烈な印象を受ける。

◎天然色活動写真株式会社(天活)創立、日本最初の色彩映画(キネ一マカラー)
『義経千本桜』を発表。
◎第一次世界大戦起こる。


■1916年(大正5年)11歳

弟・正夫、生まれる。
小学校で「学業操行共二佳良ナル二依リ本状ヲ授ケ之ヲ賞ス」と賞状を受ける。


■1917年(大正6年)12歳

◎警視庁、活動写真取締規則公布。フィルム検閲、男女席の区別等を規定。
◎ロシア十月革命。



■1918年(大正7年)13歳

橘小学校を優秀な成績で卒業するが上級学校に進学すると級長にされると聞き、
怖くなり進学をやめる。家にいると店の商売や魚の料理などを手伝わされるため、
筋向いの人力車宿の友達が通っていた、近くの私立育英商業学校に進学する。

Nobuo Nakagawa 1905-1984

中川信夫・人間として映画監督としての79年

<1> 幼年時代 (1905年〜1918年)

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