中川信夫プロフィール
1905年(明治38年)
4月18日、京都で中川竹次郎(料理旅館嵐峡館の板場のシン)とソノ(同仲居頭)の長男として生まれる。
1924年(大正13年)19歳
私立育英商業高校卒業
「映画監督になりたい」と、父に言うと「好きな道へ行け」と言われて、一生が決まる。
1925年(大正14年)20歳
帝国キネマ小阪撮影所に入社。キャメラ助手、現像の仕事をするが二週間ぐらいでやめる。
1926年(大正15年)21歳
父・竹次郎、心臓発作で死去(57歳)。
1927~1928年(昭和2年~3年)
母の継いだ家業を手伝いながら同人誌に小説を発表、「キネマ旬報」の懸賞論文に投稿し当選、以後「キネマ旬報」に投稿を続ける。
1929年(昭和4年)24歳
マキノ撮影所に入社。助監督をしながらシナリオを書かされる。昭和4年マキノ撮影所解散。
1932年(昭和7年)27歳
市川右太衛門プロダクション入社。
1934年(昭和9年)29歳
「弓矢八幡剣」で監督となる。
1936年(昭和11年)31歳~1941年(昭和16年)36歳
昭和11年、右太衛門プロ閉鎖。設立されたマキノ・トーキー入社後、翌年マキノ・トーキーは解散。嵐寛寿郎プロに入社したが、またも解散。東宝(京都撮影所)入社、
1938年(昭和13年)
「月下の若武者」(長谷川一夫)など時代劇を監督。その後、東宝・東京撮影所へ移り、エノケンの喜劇映画5作品(「エノケンの頑張り戦術」は傑作)他喜劇映画を監督。一方、夏目漱石の「虞美人草」など文芸作品を監督。太平洋戦争が始まり製作統制で製作本数減少、契約切れで東宝を退社。松竹京都に入社するが、こちらも縮小で企画待ちのまま。
1942年(昭和17年)37歳
中国の上海にあった中華電影公司に監督として採用される。
1943年(昭和18年)38歳
日本に出張撮影のため一時帰国。友人の紹介で佐竹美弥子と見合い結婚後、二人で上海に戻る。
1945年(昭和20年)40歳
長男・信吉生まれる。終戦。
1946年(昭和21年)41歳
引揚げ、1月21日、鹿児島湾に上陸。
1947年(昭和22年)42歳
新東宝でエノケン主演「馬車物語」を監督。
長女・直子生まれる。
1950年(昭和25年)45歳
次女・真日生まれる。
1951年(昭和26年)46歳
母・ソノ死去(73歳)。
1951年(昭和26年)~1956年(昭和31年)
「深夜の告白」「私刑」「青ヶ島の子供たち 女教師の記録」などの社会派ドラマ。
「当たり矢金八捕物帖 千里の虎」、若さま侍捕物帖シリーズ、右門捕物帖シリーズ、人形佐七捕物帖シリーズ、「夕焼け富士」「番場の忠太郎」などの時代劇。
「思春の泉」「若き日の啄木 雲は天才である」「石中先生行状記 青春無銭旅行」などの文芸もの。
「アマカラ珍騒動」などの喜劇。と、幅広いジャンルの作品を倒産するまで新東宝で監督。
また、この間に東映(「旗本退屈男・唐人街の鬼」「恋風五十三次」「今日は会社の月給日」他)、東宝(「三四郎」「吸血蛾」他)、宝塚映画(「恋すがた狐御殿」)などでも監督。
1957年(昭和32年)52歳
初めての怪談映画「怪談累が渕」を発表。
1959年(昭和34年)54歳
「東海道四谷怪談」を発表。
1960年(昭和35年)55歳
「地獄」を発表。
1961年(昭和36年)56歳
「かあちゃん」を発表。「愚連隊」(「悲しみはいつも母に」と改題、翌年大映で公開)が新東宝最後の作品となる。
八月、新東宝倒産。
1962年(昭和37年)~
以後、「八百万石に挑む男」「怪談蛇女」など東映他で監督。
その後の仕事の中心となったテレビ映画の監督をはじめる。
「柔道一代」「親子鷹」「アッちゃん」「鳴門秘帳」「お庭番」「プレイガール」「コメットさん」「ウルトラマンレオ」など数多くの作品を手がける。特に夏場は、怪談物の作品依頼が多く、「怪談牡丹灯篭」は必見の傑作。
1961年(昭和56年)76歳
「中川信夫詩集・業」を発行。
「怪異談 生きてゐる小平次」で13年ぶりに劇場映画を監督。
1984年(昭和59年)79歳
二月脊髄炎で入院、三月脳梗塞併発。
6月17日、心不全で死去。