「人間一生に一度は気を吐く時があるものです」

 百歳の映画監督・中川信夫マキノ映画時代を語る

                        鈴木 健介

タイトルの言葉は、中川信夫がマキノ映画に入社して、尊敬する脚本家山上伊太郎と
会う機会を得た時に言われた言葉である。
以来、中川信夫は、山上伊太郎を心の師と仰ぎ、その言葉を心に秘めて映画の道を突
き進んだ。
1905年(明治38年)4月18日生まれだから、今年、誕生日を迎えると百歳にな
る。1982年に『怪異談生きてゐる小平次』を発表してから23年、今、中川監督
はダンテの『神曲』に取り組んでいる。それは、新東宝時代に『地獄』(1960)を
手がけたのちから抱き続けてきた長い想いであった。
その撮影現場に新年早々、私、鈴木健介が訪ねインタビューを試みた。



―― おめでとうございます。

中川 おめでとう。

―― 『東海道四谷怪談』(1959)が年頭から『キネマ旬報』(2005年2月上旬
   号)の日本、外国総合ホラー映画のジャンルでベスト・ワンになりましたね。

中川 そうか。あの映画一本で、そのあとの映画やテレビの仕事をしてこれたものな。
   ありがたいことだよ。

―― 早速ですが、映画の道に入られたのが、1929年(昭和4年)、マキノ映画。
   二四歳の時。その頃にしては遅いですね。

中川 その前に、二十歳の時、大阪帝国キネマ小坂撮影所に入ったけど半月でやめた。

―― どうして。

中川 キャメラ助手の仕事をさせられ、機材なんかも重かったからね。

―― 文学青年、いや根っからの文学少年逃げ出すの図ですね。

中川 そうだな。私立育英商業学校に入学したのが一四歳、その学校仲間と同人誌を
   創めたんだね。まさに少年。その頃台頭してきた横光利一、川端康成の新感覚
   派文学、それにプロレタリア文学も読んでいた。

―― なのに、文学に進まずに映画。

中川 文学に進むには大学を出ていないと駄目だと単純に考えて、映画ならやれそう
だと。

―― 育英商業を卒業すると、小坂撮影所へ。

中川 そう。

―― そして、逃げ出した。

中川  (笑って)逃げた。

―― そのあとマキノ映画に入るまで何をしていたんですか。

中川 父が死んだので、店(巌水鰻食堂)を継いだ母の手伝い。仲間の同人誌に小説を
書いたり、『キネマ旬報』に投稿したり。

―― そして投稿の常連になった。若き日の中川信夫の映画に対する考え方が髣髴と
   する内容ですね。また、山上伊太郎と小津安二郎についてのものが多い。中で
   も、山上伊太郎に対する傾倒はすごい。こう、書いてある。

   
  ・・・・・ (略)
7. 山上伊太郎は稀にみるシナリオライタアの一人であるはうたがひもない。
8. 伊太郎の脚色ぶりには、簡素な清潔さがみえる。それから夥しく雄弁なタイト
ルの駆使こそは、そこに盛り上げられたる現代的色彩の鋭く、肺腑を刺す内容
とともに恰も、その一つ一つが画面とくみあってかもし出すミリウを、ひきし
   め、スピイドを付与してゐるのではないか。(ミリウはフランス語のmilieuと
   思われる) 
9. 無字幕主義者、或いは反字幕主義者は言ふにちがひない。邪道だ、と。然り、
   さりながら既にして邪道を走ってゐる剣戟映画ではないか。とに角、そのスピ
   イドあるスリルの利用により、大衆への共鳴点を高く把ってゐる現代の状態に
   於て、彼が、より大衆性ある作品に於て、画面の展開とともに、如何に賢明に
   字幕の使用をなしたかは、特筆大書さるべく、燦と輝いてゐるのだ。 
10.剣戟映画のもてるスピイドの、最高級スピイドの記録は彼によって示され、劃
   された。
   (そして、『蹴合鶏』の主人公の「ニヒリステイクな男の描法」について「一見
   非人間的、性格破産な影の底で、純真な人生への見方がうごいてゐたのだった。
   シリアスに、きまじめに論じるかはりに、へんに反抗児めきながら、却ってナ
   イイヴに、人間の本性を暴露した」「暴露戦術。そうだ。暴露戦術だ」と。こ
   の手法が次作以降からますます明確になっていくことを指摘し『崇禅寺馬場』
   を例に取り上げたあと)
11.そして『浪人街』である。第一話に於て、うつな、ナンセンスな極致をみせ、
   その第二話にいたっては、既にして、これが剣戟のための剣戟ではない、一篇
   のメロドラマを構成した。こまやかな夫婦愛と、友愛と、それをつつむユウモ
   アとサタイアとペーソスと。箱入花嫁に褌を洗はせる辛辣な手法。而も、解決
   篇の末尾にある巧みなる脚色手法は驚くべきものがある」

      (【奇才・山上伊太郎】「キネマ旬報」1929年3月11日号より)

   
―― マキノ映画に行かれたのは山上伊太郎がいたから。

中川 紹介されて京都は太秦、日活撮影所に第一級の大監督村田実のところへ。その
   後、返事を待つ間、シナリオなど二、三送ったけど、応答なし。シビレを切ら
   して、マキノへ行くことになった時、村田監督から「来るように」と電報があ
   った。しかし、マキノへ行った。これが、私の映画生活の裏街道行きの第一歩。

―― なぜ、裏街道。

中川 片や日活、大会社。片や、牧野省三、個人の資本で小会社。月給はボクが最低
   の二十円。その頃、日本酒が一番下の並で一升一円弱。アパートが六畳一間で
   七円。

―― 日活へ行っていたら、山上伊太郎とも巡り合えなかったし、『東海道四谷怪談』
   も生まれなかった。

中川 お前、痛いとこ付くなぁ。バカヤロー(と、笑み)。

―― 入られたのはマキノ映画の創設者、牧野省三が亡くなられた直後。

中川 その時、『首の座』の試写の張り紙があったんで見に行った。

―― それを、また、『キネマ旬報』に書いた。
    

 ・・・・・ (略)
  『首の座』は時代ものである。けふの日本映画にあって時代ものにその佳作を多
  くみるゆえんは、その背景に貧しいながらに見据えることのできる落附があるこ
  とも一因であらう。そして、何よりもドラマティクな演出をなし得ることにかゝ
  って力あるを知る。その採光に於ても恰もスポットライトの如き用法をもってし
  て、エンファサイズする多くの場面をみるだらう。山上伊太郎、例に依って字幕
  三昧、いい機嫌である。露骨に革命を叫びはしない。その字幕にカムフラージュ
  された叫喚の底に、救はれざる人間の哭きが潜む。マキノ正博は詩情ある監督で
  ある。その簡結なる手法のテムポの早さは、脚色の速さを乗り超えて進んでゐる。
  (略)『首の座』は暗鬱にどんぞこにへ沈んでゐない。明るい悲劇である。その明
  るさは伊太郎であり、正博である。(略)徒らに仇討ちばかりを択んでゐる他の人
  達にこの作品の香ぐはしい歌を聞かせたい。正博の稍(やや)、ラフであるタッ
  チに伊太郎のものするシナリオと肌を合致させてゐる。お互いに神経ばかり尖っ
  てて、何も出来ない現代劇映画の製作家たちは、この克明なる荒削りを学ぶ可き
  である。(略)」

(【「首の座」「希望」の二作品に就いて】「キネマ旬報」1929年9月11日号より)
   

―― マキノで最初に付かれた監督はどなたですか。

中川 阪田重則監督。そのあと、マキノ正博(のちに雅裕と改名)。省三の息子。
   年下だったね。キネ旬にマキノ映画のこと書いていたのを知っていたから、助
   監督をしながらシナリオ書かされた。五、六本かな。シナリオ料ナシ。部屋で
   寝転んで書いてたら、マキノが来て「出来たか?」って。「ちょっと困った」
   って言ったら、「そんなのいい加減にやっとけ」って。マキノ偉いな。マキノ
   が一番いいのはあの時だな。難しいことも何も言わないもの。

―― マキノ正博が師ということに。

中川 いや。師は山上伊太郎ひとり、自分で決めた。入って一年ぐらい、世の中、世
   界経済恐慌のあおりで不景気。マキノも給料を遅配。争議に突入。記録係りを
   させられて。この時、会社に対して、袴をはいた和服姿の山上伊太郎が畳を叩
   いて弁じた姿が印象的だったな。脚本家としても凄かったが、理路整然とした
   弁と上に対する気概もなかなかなものだった。

―― そして、翌年(1931年)マキノ映画は解散。

中川 これが、映画生活裏街道のはじまり、はじまり。

―― 何をおっしゃる。そのあと、市川右太衛門プロへ行って、1934年に『東海
   の顔役』で監督デビューしているでしょう。

中川 許せ、スズキ。ゴメン。

―― きょうは、有難うございました。

中川 帰るなっ。撮影が終わったら、一杯だぁー。
     



撮影現場の中川監督の姿を見ながら思った。中川信夫の大胆で、媚びない幅広く深さ
を持った表現と映画つくり、そして、弱く貧しいものたちの視点から捉え続けた姿勢
はすでに実生活を通しておぼろげにはあった。それが、短かったが「マキノ映画」で
培養され、その後の土台になった。その決定打は山上伊太郎である。
「人間一生に一度は気を吐く時があるものです」
この励ましの言葉を支えに、幾多の苦難、失意を乗り越え、中川信夫は長い映画人生
を生き抜いてきた。
『東海道四谷怪談』が「気を吐く時」だったのか、それとも次回作『神曲』がその時
なのか。その撮影現場を舞台に中川信夫の伝記を書くことにしている。
 
   

注:中川信夫監督は1984年6月17日に亡くなられています。
  でも、その精神は百歳になっても色褪せていません。このようなインタビュー、
  悪戯好きな中川さんなら許していただけるでしょう。

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「彷書月間」2005年3月号掲載